島津斉彬公像 しまづなりあきらこうぞう

富国強兵、殖産興業に注力した島津家第28代当主

集成館事業を起こし、軍事・教育・科学など、富国強兵、殖産興業に力を注いだ、島津家第28代当主・島津斉彬公の銅像です。
1917年、朝倉文夫によって制作されました。
(島津斉彬について)
1809年(文化6)~1858年(安政5)

島津家第28代藩主。父は藩主斉興と母は鳥取藩主池田治道の第三女周子(賢章院)との間に、長男として江戸で生まれた。幼名を邦丸、のち又三郎といった。

このとき、曽祖父の重豪は健在であり、89歳で亡くなるまで、子第26代斉宣、孫の第27代斉興の後見人として、60余年、島津藩の実権を握っていた。

斉彬は、薩摩に新風を吹き込んだ進取の気性に溢れた曽祖父、重豪のもとで青年になるまで育った。10歳のころには書や絵画にすぐれ、漢文で書いた中国の本を読みあさり、高い教養を身につけるとともに、重豪の影響で洋学の研究にも手をつけた。15歳になると、将軍家斉に謁して兵庫頭と称し、家斉の一字をもらって本名を斉彬と改めた。

その2年後には、重豪がオランダ商館の医師シーボルトを江戸屋敷に迎えた時、その席につらなって動植物や医学などヨーロッパの進んだ学問を学び、世界の情勢を知ることができた。斉彬は世子であったころから重豪の教えを守り、水戸の徳川斉昭、福井の松平春嶽、土佐の山内容堂、宇和島の伊達宗城らのすぐれた大名たちと親しくし、特に幕府の老中阿部正弘とは親交があった。

そして、当時、屈指の諸大名中、斉彬は英明第一といわれていた。斉彬の側近、山口定救が「ゆくゆくは幕府の筆頭老中として天下の国政に当たらせたい」と記録していることでもわかる。

斉彬は、重豪の感化を受けて、藩庁・藩庁以外の洋学者にも江戸や鹿児島で蘭学を講じさせたり、蘭書を翻訳させて科学の実験研究も行った。斉彬自身もローマ字で書いた手紙や日記を残しており、国際的な見識が高かった。

このようにすぐれた人物であったので、藩の内外から藩主となることを期待されていた。当時、琉球にイギリスやフランス船が出没するようになると、藩主斉輿に代って帰藩するように幕府から命ぜられた。斉彬は老中阿部正弘に認められ、水戸の斉昭のように斉彬を藩主に推す諸大名も少なくなかった。

しかし、父斉興の重臣及び側室のお由羅らが、その子久光を後継ぎにしようとしている情報があり、そのため、斉彬擁立派が実力行使を計画するようになった。激しく怒った斉興は、斉彬擁立派を一挙に弾圧し、切腹や遠島処分にした。この弾圧(嘉永明党事件・お由羅騒動)が藩内に与えた影響は大きかった。この薩摩藩の内わもめは、福岡藩主黒田斉薄(斉彬の祖父斉宣の弟)や、宇和島藩主の伊達宗城の知るところとなり、水戸の斉昭や福井の松平春嶽らの斡旋によって、老中阿部正弘が斉興の重臣に斉興の隠退を内密に諭して、ようやく、1851年(嘉永4)斉興が隠退し斉彬が第28代藩主になり、薩摩守と称するようになった。ときに満41歳であった。

斉彬は藩主になると、諸大名の期待にたがわず、藩政改革をし、藩の富国強兵策を率先して強力に実行した。斉彬の在位期間は、わずか7年。しかも鹿児島に居たのは、そのうち4年余。しかし、この短い期間に驚くほど広範囲な業績を残した。軍事・教育・科学の振興から殖産興業に至るまで。やがて薩摩藩が維新の原動力となるエネルギーは、この時に培われたものである。

造船所をつくり、西洋型帆船伊呂波丸、軍艦昇平丸、わが国初めての蒸気船雲行丸など西洋式艦船をつくり、さらに幕府に大船建造の解禁及び日章旗を日本の総船章とすることを建議して採用された。磯に集成館を建て、反射炉、溶鉱炉をつくり、新式の大砲(薩英戦争で使用)や銃を生産した。さらに紡績工場、電信機、ガラス製造所、水雷、綿火薬など多くの近代工業が斉彬の手によって開かれた。さらに教育制度の改革にも手をつけ、郷中教育の徹底、軍事調練、学者の招待など積極的に進めている。

斉彬の時代は、300年にも及んだ鎖国封建体制が根元からゆれ始めたころである。長い海岸線を持つ薩藩には、とりわけ外国の脅威がひしひしと感じられた。早くから海外の文化に目を開いた斉彬は、来たるべき時代をはっきり見通していた。

「阿片戦争聞書」には、当時の清国が英国と戦ったことを自分自身で詳しく筆写している。西洋の先進国がアジアの各地に植民地をひろげることの恐ろしさを知った数少ない先覚者であった。

他方、幕府を強力なものにするために、当時の第13代将軍家定に子供がなかったので、英明な徳川慶喜を跡継ぎにしたいと考えた。そして、一方では自分の養女篤姫を家定の御台所とした。これらの重大なことを、自分の意志をよく知っている家来として、西郷吉之助(後の隆盛)を各方面への連絡にあたらせた。

そして、機を見て上洛する(京都に上る)日に備えて城下天保山の調練場で炎天下に練兵の指揮をしていたとき急病となり、7月16日、ついに帰らぬ人となった。49歳であった。

斉彬は、城山の麓、照国神社に祭られ、今も多くの県民の心の中に生きている。

(出典:「鹿児島市の史跡めぐり人物編」鹿児島市教育委員会・平成2年2月発行)


エリア
天文館
カテゴリー
歴史・史跡

基本情報

住所 〒892-0841 鹿児島県鹿児島市照国町
アクセス ・市電「天文館」から徒歩約5分
・カゴシマシティビュー「西郷銅像前」下車徒歩約3分

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