平田靭負銅像 ひらたゆきえどうぞう

木曽川、長良川、揖斐川治水の総指揮者

江戸幕府より課せられた尾張藩内での宝暦治水で指揮をとった薩摩藩家老・平田靭負の像です。
1954年5月25日、安藤士によって制作されました。本体3m。宝暦治水200年顕彰。
(平田靭負について)
1704(元禄17)年~1755(宝暦5)年

平之町の平田屋敷(現在の平田公園)に生まれる。

1753(宝暦3)年、薩摩藩は江戸幕府から木曽川などの治水工事を命じられる。幕府には、薩摩藩に金のかかる治水工事をさせて、その力を弱めようという目的があった。藩内では、この命令に対して、いろいろな意見が出されたが、靭負は「命令を断るということは、幕府を相手に戦うことになる。そうなると犠牲が出て、数多くの命を失うことになる。また、他の藩のことであっても、苦しんでいる人を助けることこそ武士の本分である。そして、そのことが薩摩藩を救い、水害に悩み苦しむ木曽川の村人を救うことにもなるでしょう」と言って人々の考えを一つにした。

1754(宝暦4)年2月、藩主の島津重年から工事の総奉行に任命される。3月から、岐阜県美濃に移り、部下や人夫約千人を指揮して、工事を監督した。工事の費用は大阪の商人から借り、藩内では年貢や税を引き上げたことで、人々の生活は困窮した。梅雨の洪水期にはせっかく作った堤防が壊れ、作り直す。また、幕府の役人が工事を順調に進ませないように嫌がらせをするなど困難が続くなか、切腹をする者や赤痢が流行して病死する者が84人。使った金額は現在に換算して200億円以上。

幾多の辛苦をなめながら、十数里にわたる工事を見事完成させると、1755(宝暦5)年5月25日、靭負は犠牲者や借財の責任を負い、自刃した。50歳(満)であった。

(参考:「もっと知ろうよ維新のまち」鹿児島市・平成23年3月発行)


エリア
天文館
カテゴリー
歴史・史跡

基本情報

住所 〒892-0848 鹿児島県鹿児島市平之町
アクセス 市電「加治屋町」から徒歩約10分

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