岩永三五郎之像 いわながさんごろうのぞう

甲突川に架かる5つのアーチ石橋の建造を指導

甲突川に五石橋(新上橋・西田橋・高麗橋・武之橋・玉江橋)を架けた岩永三五郎の像です。
(岩永三五郎について)
1793(寛政5)年~1851(嘉永4)年

1793(寛政5)年、石工宇七の次男として肥後藩の八代郡西津野村で生まれる。

1830(天保元)年、八代郡七百町新地の工事の功績が認められ、岩永姓を許される。

1840(天保11)年、郡奉行見習として薩摩藩に招かれる。

1842(天保13)年、稲荷川に永安橋などの6つの橋を架ける。

責任感の強い棟梁としての岩永の姿を「鹿児島県維新前土木史」は以下のように記している。

稲荷川の永安橋がまもなく完成しようとするころ、どしゃぶりの大雨にみまわれました。そんな大雨の中、橋の水中基礎の構造を心配した三五郎は身の危険などお構いなしに一心不乱に潜り、橋脚に異常がないか調べました。三五郎は、今度の洪水をまたとない好機として、自らの命をかけて実地調査を行ったのです。牙をむいて流れる濁流に飛び込むときの恐怖心も、三五郎の石橋に込める情熱の前には、影を潜めてしまったのです。石工たちは、こんな棟梁・三五郎を尊敬し、共に石橋作りに携わっていきました。

1845(弘化2)年、甲突川に五石橋(新上橋・西田橋・高麗橋・武之橋・玉江橋)を毎年1橋ずつ架ける。

1849(嘉永2)年、家老調所広郷が亡くなると、三五郎は川内の江ノ口橋を最後に肥後に戻る。

1851(嘉永4)年、死去。58歳の生涯を閉じた。

(参考:「もっと知ろうよ維新のまち」鹿児島市・平成23年3月発行)


エリア
上町
カテゴリー
歴史・史跡

基本情報

住所 〒892-0803 鹿児島県鹿児島市祇園之洲町
アクセス 鹿児島中央駅から車で約20分

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