村田新八 むらた しんぱち

1836(天保7)年~1877(明治10)年

西南戦争で薩軍の大隊長として活躍。鹿児島市薬師町に生まれた。

少年時代から西郷隆盛と友だちで、よく遊び、よくけんかした。西郷が沖永良部に流された時、喜界島に流されている。その後、島流しを許された西郷によって島から連れもどされた。

戊辰戦争では、2番隊監軍として活やくした。

1871(明治4)年、岩倉具視らとヨーロッパ、アメリカを見て回った。このとき、一緒に行った人たちが先を争って洋服を新しく作るのをみて、「いくら、いい洋服を着ても中身がしっかりしていないと意味がない」と言って、1人だけ古い服のままで過ごしたという。3年後、帰国してみると、朝鮮への使節派遣が受け入れられなくて、西郷は鹿児島へ帰っている。ほかの鹿児島県出身者たちも多くは帰っている。村田も帰ろうとして大久保利通にひきとめられたが、「西郷さんの考えも聞こう」と帰って来た。

鹿児島に帰って、西郷や篠原国幹たちと私学校をつくった。私学校の砲隊学校の校長格として青少年たちの指導にあたった。大へん、頭のきれる人だったという。また、アコーディオンをひくほど音楽を好む幅広い人で、温泉好きでもあった。堂々とした体格で、はだかになると背中いっぱいに傷がある。地元の農民たちが「わっぜぇ、けんかをしやしたなあ」と言うと、「わしは焼酎が好きで、飲んで暴れ回って傷ができたんだ」ととぼけていた。本当は酒を一滴も飲めなかったという。

西南戦争では、はじめから進んで賛成してはいなかったが、いざ始まると、大隊長として活躍した。そして、城山最期の日、西郷が死んだあと、岩崎谷で戦死した。長男の岩熊も熊本県植木の戦いで戦死している。

(出典:「鹿児島市の史跡めぐり人物編」鹿児島市教育委員会・平成2年2月発行)


カテゴリー
歴史・史跡

このページを見ている人は、こんなページも見ています

We use cookies on this site to enhance your user experience. If you continue to browse, you accept the use of cookies on our site. See our cookies policy for more information.