西郷従道 さいごう じゅうどう

1843年(天保14)~1902年(明治35)

鹿児島市加治屋町の生まれ。父・吉兵衛の三男で、長兄隆盛とは16歳はなれている。幼名竜助、のち信吾と称し少年時代から伊地知正治に兵学を学んだ。

戊辰戦争の時、従道は鳥羽・伏見の戟で首に銃弾を受けて重傷を負ったが、英医ウィリスの治療を受けて回復、さらに東北へ転戦した。

1869年(明治2)、山県狂介(有朋)とともに欧州視察におもむいた。この旅行が彼に国際的な視野を開かせた。

1870年(明治3)7月帰国。兵部省に入り、陸軍少輔・近衛副都督・大輔と進み、1874年(明治7)4月には中将で台湾出兵を指揮した。数え年32歳の若さだった。

1877年(明治10)2月、西南戦争が起こり、従道は最も敬愛する兄・隆盛を敵に回すことになった。征討軍に加わることを望んだが許されず、官軍の総指揮にあたる参軍山県陸軍卿の留守を預る陸軍卿代理を務めた。

翌年、1878年(明治11)5月24日、大久保利通が暗殺された時、まっ先に現場にかけつけ、遺体をていねいに毛布に包み、自分の馬車で大久保邸に送り届けた。

1885年(明治18)12月22日、内閣制度が定まり、伊藤博文が総理大臣として組閣するにあたり、陸軍中将西郷従道は転じて初代海軍大臣となった。

その後、海相、内相など、連続9代の内閣に名を連ね、1894年(明治27)7月、日清戦争のとき従道は、わが国最初の海軍大将となった。また、陸軍第2軍司令官として出陣する大山巌の留守を預かって陸軍大臣を兼ねた。日清戦争の功績により1895年(明治28)8月、候爵となったが、従道がわが国最初の元帥・海軍大将、初代海軍大臣であったことを知る人は少ないという。

(出典:「鹿児島市の史跡めぐり人物編」鹿児島市教育委員会・平成2年2月発行)


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歴史・史跡

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