篠原国幹 しのはら くにもと

1836年(天保7)~1877年(明治10)

西南戦争のときの薩軍の1番大隊長。鹿児島市平之町に生まれた。

藩校造士館で和漢の学を学び、早くから注目されていた。戊辰戦争では、薩摩藩3番隊長として東海道から東北地方で戦い、活躍した。

1869年(明治2)には鹿児島常備隊の大隊長となった。その後、陸軍少佐となったが、1873年(明治6)、朝鮮への使節派遣問題に敗れた西郷が職を辞めて鹿児島に帰ると、そのあとを追って帰ってきた。

翌年、桐野利秋、村田新八らとともに私学校をつくった。私学校は銃隊学校と砲隊学校とからなっていて、篠原は、銃隊学校の校長として青少年をきたえた。篠原校長の話があると、いつも講堂は満員で、足の踏み揚もなかったという。また、時間に大へん厳しいことでも有名であった。病気で体がふるえているときでも、決められた時間より早く帰るわけにはいかない、とがんばったという。

剣の名人でもあり、造士館で和漢学句の先生を務めたほどの学者でもあった。また、かねては無口でも有名だった。熊本の池辺吉十郎がはるばる訪ねてきたときも、2人向かい合ったまま、篠原は1日中、一言もしゃべらなかったという。

1877年(明治10)の西南戦争では、1番大隊長として田原坂の戦いを指揮した。部下が止めるのもきかず、吉次越で銃弾が飛びかっている中を飛び出し、胸を撃たれて死んだ。

(出典:「鹿児島市の史跡めぐり人物編」鹿児島市教育委員会・平成2年2月発行)


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歴史・史跡

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