山本権兵衛 やまもと ごんのひょうえ

1852(嘉永5)年~1933(昭和8)年

海軍大将。総理大臣。鹿児島市加治屋町に生まれた。

身体がじょうぶで、相撲の好きな少年であった。そのため、相撲界に入って出世しようとして、陣幕久五郎という横綱に弟子入りを頼んだこともあったという。

16歳のとき、18歳と偽って戊辰戦争に参加した後、海軍兵学寮に入った。1874(明治7)年、西郷隆盛を追って鹿児島に帰ってきた。しかし、西郷の勧めで兵学校に進み、ドイツ軍艦で世界を回った。1886(明治19)年より軍艦「天城」などの艦長を務めた。その後も海軍の仕事に務め、日本が中国と戦った日清戦争では海軍大臣副官として参加した。

1898(明治31)年、第2次山県内閣の海軍大臣となり、引き続き7年間、海軍の最高の責任者の地位にあった。この間に東郷平八郎を連合艦隊司令長官に任命した。

1904(明治37)年のロシアと戦った日露戦争では、海軍大臣として参加した。

1913(大正2)年、総理大臣となり行政の整理など手がけたが、シーメンス事件が起り総理大臣をやめた。

1923(大正12)年9月、関東地方をおそった関東大震災のさなか、また総理大臣になり、東京の町を復興することに努力した。ところが、この年の12月、摂政宮(天皇のかわりをする宮様)を鉄砲で撃つという事件が起こり、その責任をとってやめた。

心が広く、小さなことにこだわらない、さっばりした、ユーモアのある性格だったといわれる。

(出典:「鹿児島市の史跡めぐり人物編」鹿児島市教育委員会・平成2年2月発行)


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歴史・史跡

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