明治維新は鹿児島から始まった!?
新しい時代を切り開いた西郷隆盛と大久保利通-1

明治維新は鹿児島から始まった!?
新しい時代を切り開いた西郷隆盛と大久保利通

250年以上続いた江戸時代を終わらせ、近代日本の礎となった明治維新の成立に多大な功績を残した西郷隆盛、大久保利通は、薩摩藩の下級武士の出身でした。長州藩の木戸孝允とともに、「維新の三傑」として讃えられる2人は、どのようにして強大な江戸幕府を倒し、新しい時代を切り開いていったのでしょうか。彼らの足跡をたどりながら、明治維新までの道のりを紐解いてみましょう。

 

700年続いた武士の世が終わり、新しい時代へ

1603(慶長8)年に徳川家康が征夷大将軍に任命されて以降、250年以上もの間、強大な権力を握っていた江戸幕府。しかし、1853(嘉永6)年にアメリカのペリー提督率いる黒船が現れ、日本に開国を迫るとほころびを見せはじめました。翌年、幕府がアメリカと日米和親条約を結んだことで、200年間続けられた鎖国が終わります。これは同時に江戸時代、ひいては12世紀から約700年続いた武士の世の終焉を意味していたのです。

黒船への対応に弱腰の幕府を見て、このままでは日本は外国のいいなりになり、いつか欧米列強の植民地にされてしまうと危機感を抱いたのが、西郷隆盛や大久保利通を中心とする薩摩藩の若い武士たちでした。彼らは幕府を倒して外国に負けない新しい国を作るために奔走したのです。

薩摩藩が誇った圧倒的軍事力を背景にして幕府を倒し、天皇を中心とする新しい政府を作った西郷や大久保たちは、欧米諸国を手本にさまざまな改革を推し進めていきました。明治新政府は江戸を東京と改めて首都にすると、藩を廃止して県を置き、これを政府が直接治める中央集権体制を築きます。また、農業に代わる近代的な産業を盛んにするため、外国から最新の機械を購入したり、外国人技師を招いて工場を整備したりする「殖産興業」によって国を豊かにするとともに、軍事力を強化して「富国強兵」に努め、近代国家の礎を築いたのです。

 

明治維新の原動力となった西郷隆盛

新しい近代国家の成立に最も功績のあった1人と考えられるのが西郷隆盛です。西郷は1827(文政10)年に薩摩藩の下級武士の長男として生まれました。薩摩藩には「郷中(ごじゅう)教育」といって、地域の武士の子を集めて厳しくしつけ育てる自治組織があり、西郷も子どもの頃からそこで学びます。大久保利通も同じ郷中仲間で、幼い頃からの友達でした。

西郷は28歳の時に薩摩藩主・島津斉彬に見出されて側近に取り立てられると、斉彬の命令で、江戸や京都などで幕府の重役や全国の有力大名、側近などと会って人脈を広げるとともに、今後の国のあり方について深く考えるようになりました。

1864(元治元)年、薩摩藩の軍隊指揮官に任命された西郷は、大久保とともに藩を倒幕勢力の急先鋒へと導いていきます。そこで大きな役割を果たしたのが、土佐藩出身の坂本龍馬でした。龍馬の仲介によって、1866(慶応2)年に西郷は薩摩藩と対立していた長州藩の木戸孝允と話し合い「薩長同盟」を結ぶと、倒幕運動を加速させていきます。

西郷と大久保は公家の岩倉具視とも協力し、朝廷から討幕の密勅を引き出そうと画策。しかし、幕府側は1867(慶応3)年10月に15代将軍となった徳川慶喜が「大政奉還」を行って、政権を朝廷に返すことで倒幕を無意味なものにしようとしました。そこで、西郷と大久保は同年12月に岩倉と結んで朝廷に「王政復古」の大号令を出させて、武力で一気に幕府を倒そうと動き出したのです。
 

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近代化をいち早く推進した薩摩の名君・島津斉彬-1

近代化をいち早く推進した薩摩の名君・島津斉彬

身分が低かった西郷を側近として登用し、活躍の場を与えた島津斉彬は、1809(文化6)年に島津家27代目当主・島津斉興の長男として江戸で生まれました。

斉彬は幼い頃から外国の文化に強い関心を持ち、1851(嘉永4)年に薩摩藩主に就任すると、日本を外国に負けない強くて豊かな国にする必要があると考え、鉄製大砲を製造するための反射炉を築かせ、蒸気船やガス灯、薩摩切子などを製造する「集成館事業」を起こし、藩の近代化を推し進めました。

13代将軍・徳川家定の継嗣問題では、次期将軍に一橋慶喜を推して徳川慶福を推す幕府の大老・井伊直弼と対立しましたが、その最中の1858(安政5)年に急逝。斉彬が夢見た新しい近代国家を作るという夢は、西郷をはじめとする薩摩の若者たちに引き継がれたのです。

類まれな事務能力で、政治工作などを担った大久保利通

軍隊の指揮官として精神的支柱でもあった西郷に対して、秀才の誉れ高く政務・実務に長けた大久保利通は、1830(天保元)年に鹿児島で生まれ、3才年上の西郷とは同じ下加治屋町で育ちました。

若い頃は、藩のお家騒動に巻き込まれて、父とともに処罰されるなど不遇の時代もありましたが、やがて尊王攘夷を唱える若手藩士の組織「精忠組」のリーダーとしてめきめきと頭角をあらわします。西郷をかわいがった藩主・島津斉彬の死後、新しい藩主の父として斉彬の弟・島津久光が藩の実権を握るようになると、大久保は久光が好きだった囲碁を通じて接近し、側近に取り立てられて藩の政治に関わるようになりました。

大久保は、久光が目指していた朝廷と幕府が協力し、外国に対抗する強い日本を作るという「公武合体」政策実現のために京都や江戸に赴き、公家や有力大名などとの間でさまざまな政治工作を行うようになったのです。
 

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大久保ほか多くの若者を取り立て、倒幕を導いた島津久光-1

大久保ほか多くの若者を取り立て、倒幕を導いた島津久光

島津家27代目当主・島津斉興の側室の子として1817(文化14)年に鶴丸城で生まれた島津久光は、兄である島津斉彬が亡くなった後、久光の嫡男・忠義が藩主の座につくと、その後見人として薩摩藩の実権を握るようになりました。

兄の斉彬存命の時は、次の藩主の座をめぐりお家騒動も起きましたが兄弟仲は良好で、久光が藩の実権を握ってからは、斉彬が目指した「公武合体」を推し進めるために国政へ進出。身分の低かった大久保利通を側近として重用し朝廷工作などを進め、安政の大獄で処罰された一橋慶喜や全国の雄藩大名を交えた諸侯会議を実現させました。

その後、一橋慶喜とは意見が合わず対立してしまい「公武合体」の夢は頓挫してしまいましたが、西郷や大久保などの下級武士を中心に薩摩藩を一大倒幕勢力にするなど、明治維新の実現に大きな影響力を及ぼしました。

攘夷から倒幕へ、薩摩を変えた薩英戦争

幕末から明治へ――時代の大きな転換期において主導的役割を果たした薩摩藩は、節目節目で大きな戦争を3つ経験しています。戦争は多くの命が失われるばかりか、経済的損失も大きく辛いものですが、薩摩藩はその経験を次のステップで飛躍するためのバネにしました。まず、最初の転機となったのが、1863(文久3)年にイギリスとの間で起こった「薩英戦争」です。

先にも述べた通り、「公武合体」を目指していた島津久光は、大久保利通を通じ京都で政治工作を行っていましたが、1862(文久2)年に自身も兵を率いて上京し、幕政改革を促す勅使派遣を実現させます。勅使に同行し江戸へ向かった久光は、幕府に改革を認めさせることに成功。意気揚々と帰国の途についた久光の行列が東海道神奈川の生麦に差し掛かった時、久光の行列を横切ったイギリス人を薩摩藩士が斬り殺してしまう「生麦事件」が発生します。当時の日本では、道で大名行列に出会うと必ず大名を優先して道を開けるのが慣例でしたが、イギリスは幕府と薩摩藩に抗議し、莫大な賠償金を要求しました。しかし、薩摩藩がこれを拒否したことで1863(文久3)年夏、イギリス艦隊7隻が鹿児島湾に現れ戦いの火蓋が切って落とされました。イギリス艦隊が放つ大砲によって鹿児島の町は大きな被害を受けますが、薩摩藩も先代の斉彬が造った大砲が威力を発揮し、イギリス側にも多くの戦死者を出して勝負は引き分けとなりました。

「薩英戦争」によって、外国の軍隊の強さを身をもって感じた薩摩藩内では、むやみに外国を打ち払えという攘夷論に変わり、外国にならって近代化を推し進めようという考え方が強くなっていきました。薩摩藩の気骨ある戦いぶりに感銘を受けたイギリスも、薩摩藩が将来日本を動かすリーダーになると感じ、講和を結ぶと2年後には薩摩藩から留学生15人を受け入れています。
 

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西洋の技術を学ぶために派遣された薩摩藩英国留学生-1

西洋の技術を学ぶために派遣された薩摩藩英国留学生

薩摩藩からイギリスへ留学生が送られたのは、「薩英戦争」でイギリスの捕虜となった薩摩藩士・五代友厚が「これからは海外に留学して、西洋の技術を習得しないと国の発展に役立たない」との上申書を藩に提出したことがきっかけでした。1865(慶応元)年にこれが認められ、使節員4人と留学生15人が選ばれて鎖国中の日本から密航留学を果たしました。船を手配したのは、当時長崎で活躍していたスコットランド商人のグラバーです。

一行はロンドンに渡ると、五代友厚ら使節員は銃や紡績機械を購入しました。五代は帰国後、実業家に転じ、大阪を中心に活躍。造幣局を誘致したり、鉱山経営に乗り出すと莫大な利益を得て大阪経済の発展に寄与し、のちに大阪商工会議所初代会頭になっています。

他の留学生たちもさまざまな分野で活躍し、帰国後日本の近代化に貢献します。寺島宗則は、外交官として条約改正に取り組み、外務卿、文部卿、元老院議長などを歴任。町田久成は、日本の文化財の保護に努め、博物館建設に尽力して初代帝国博物館館長になりました。村橋久成は、サッポロビールの前身となる札幌麦酒醸造所を建設。森有礼は、明治政府に出仕し、初代文部大臣を務めるなど、日本の教育制度の充実に力を注ぎました。長澤鼎は、イギリス留学後アメリカに渡ると、カリフォルニアでワイン醸造を成功させ「ワイン王」と称されました。

戊辰戦争での活躍で、西郷は時代の寵児に

「薩英戦争」の後、イギリスと手を結び最新鋭の武器を導入するなど、富国強兵を進めてきた薩摩藩の軍事力は、国内に敵はないといえるほど強大なものになっていきました。そして、その矛先は倒幕へと向けられ、「戊辰戦争」で一気に爆発します。

当時、京都には続々と過激な尊攘派が集まり治安が悪化していたので、1864(元治元)年に大久保らの口添えによって沖永良部島から鹿児島に呼び戻された西郷が軍の指揮官に任命されて、攘夷の急先鋒を担う長州藩が御所になだれ込んだ「禁門の変」を制圧しました。西郷はその後、幕府からも朝廷からも敵扱いされた長州藩を征伐する「第一次長州征伐」の交渉役を任されると、今度は戦わずして長州藩を降伏させたことで武名を全国に響かせます。こうした争いもあり、薩摩藩と長州藩は対立関係にありましたが、1866(慶応2)年、西郷と大久保は坂本龍馬、中岡慎太郎の仲介によって、長州藩の木戸孝允と話し合い「薩長同盟」を結ぶと、ともに倒幕運動を広げていきます。

まず、西郷と大久保は、公家の岩倉具視と協力し、朝廷から討幕の密勅を引き出そうと画策。幕府側は15代将軍になった徳川慶喜が「大政奉還」を行って、政権を朝廷に返すことで倒幕を無意味なものにしようとしていました。これに対して1867(慶応2)年12月、西郷と大久保は、公家の岩倉具視と結んで朝廷に「王政復古」の大号令を出させ、小御所会議で慶喜の官位も領地も取り上げて一気に幕府を倒そうと動き出します。

1868(慶応3)年1月、これに反発した旧幕府軍と薩摩・長州軍が京都で衝突して「鳥羽・伏見の戦い」が起こると、それが全国に広がり「戊辰戦争」に発展しました。西郷はこの戦いで、新政府軍を率いて江戸へ進軍。新政府軍は3月15日に江戸への総攻撃を予定していましたが、西郷と幕臣の勝海舟が江戸で会談し、幕府が新政府軍に江戸城を明け渡すことを条件に総攻撃を中止。勝はのちに「西郷のおかげで江戸の人々の命を救うことができた。他の人では交渉はまとまらなかった」と感謝したといわれ、西郷は一躍時代の寵児となりました。
 

士族の不満を背負った西郷と西南戦争

「戊辰戦争」では新政府軍が勝利を収め、旧幕府の勢力が一掃されると、いよいよ明治政府による新しい政治が本格化します。西郷と大久保はその中心にいました。新政府は全国の藩を廃止して県を設置する「廃藩置県」をはじめ、江戸時代の古い身分制度の廃止などさまざまな改革を推し進めていきます。

1871(明治4)年に大久保は、岩倉具視を団長とする岩倉使節団の一員として、欧米諸国と結んだ不平等条約の改正交渉や、諸外国の現状などを学ぶ視察の旅に出ます。その間、西郷は政府の中心となって近代的な学校制度を整えたり、徴兵制の導入などさまざまな改革を推し進めていきましたが、そこで湧き起こったのが「征韓論」でした。征韓論とは、鎖国を続ける隣国・朝鮮に対して、軍隊を送り開国を迫ろうというものでしたが、西郷は軍隊を送る前にまず自分が朝鮮に赴き、交渉をすると申し出たのです。西郷の朝鮮派遣は閣議決定されましたが、1873(明治6)年に欧米諸国との力の差を実感して帰国した大久保が、今は国内の産業を盛んにして国力をつけるのが最優先と主張し、西郷の派遣を中止させました。

閣議での決定を覆された西郷は政府に辞表を提出。鹿児島に戻ると私学校を設立し、士族の教育にあたります。しかし、1877(明治10)年に武士の特権などを取り上げられたことで不満を持っていた士族や、私学校の生徒たちが政府に反乱を起こすと、西郷は生徒たちとともに兵を上げることを決意し「西南戦争」が起こります。政府軍との激しい戦いの末、西郷は鹿児島の城山に追い詰められると、「もうここらでよか」と側近に伝え自刃。戊辰戦争の英雄が、自ら武士の時代の終わりを世間に広く知らしめるかのように壮絶な最期を遂げました。

 

鹿児島市にある明治維新ゆかりの地を訪ねる

「西南戦争」で西郷と袂を分けた大久保は、政府のトップに登りつめると「富国強兵」「殖産興業」を推し進め、公共事業に私財まで投じるなど日本の近代化になくてはならない働きをしましたが、1878(明治11)年に東京の紀尾井坂で不平士族に暗殺されてしまいます。亡くなった時、懐には盟友・西郷からの手紙を持っていたといわれています。

最終的には敵味方に分かれ戦うことになった西郷と大久保。しかし、心の中ではお互いに認め合い、新しい日本のために自分がやるべきことを信念を持ってやり続けた人生だったのではないでしょうか。鹿児島市内には明治維新の礎を築いた2人が駆け抜けた足跡が数多く残されていますので、ぜひ訪れてみてはいかがでしょうか。

 
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