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鹿児島まち歩き観光ステーション
西郷隆盛銅像
城山を背景に堂々たる姿の西郷どん
江戸城無血開城や明治新政府樹立など、明治維新に最大の功績を残した西郷隆盛ですが、突然職を辞めて鹿児島に帰郷。 その後、西南戦争で新政府軍と戦い敗北し、この城山の地で自刃しました。
この像は、没後50年祭記念として鹿児島市出身の彫刻家で渋谷「忠犬ハチ公」の制作者・安藤照が8年をかけ製作し、昭和12年(1937年)5月23日に完成したものです。
わが国初の陸軍大将の制服姿で、城山を背景に仁王立ちする高さ8mの堂々たるモニュメントです。(本体5.76m、土台1.21m、築山7.27m)
道路を挟んで撮影スポットが設けられており、愛犬の像も一緒に写真撮影を行うことができます。
この像は、没後50年祭記念として鹿児島市出身の彫刻家で渋谷「忠犬ハチ公」の制作者・安藤照が8年をかけ製作し、昭和12年(1937年)5月23日に完成したものです。
わが国初の陸軍大将の制服姿で、城山を背景に仁王立ちする高さ8mの堂々たるモニュメントです。(本体5.76m、土台1.21m、築山7.27m)
道路を挟んで撮影スポットが設けられており、愛犬の像も一緒に写真撮影を行うことができます。
小松帯刀像
大政奉還勧告者でもある薩長同盟時の家老
幕末に将軍徳川慶喜に大政奉還を勧告、王政復古を実現させた小松帯刀の像です。1993年10月13日、西俣敏弘によって制作されました。
造士館・演武館・医学院跡
島津家第25代重豪によって設立された最初の藩校
薩摩藩は、日本の最南端にあったため、武士の教育が十分でないという心配がありました。そこで島津家第25代当主重豪は、儒学によって士気をふるいおこそうと考え、安永2(1773)年に藩の学校造士館と武道場の演武館をつくりました。
造士館は、江戸にあった幕府の昌平黌をもとにつくられ、山本正誼が初代館長となり、数百名の生徒に、儒学のうち朱子学だけを教えました。演武館では、剣、弓、槍、馬、銃などの稽古が行われました。
また、重豪は、医学について非常に関心が強く、造士館の南となりに、医学を研究する医学院をつくり、薬園を吉野、佐多、山川に開きました。
(出典:「鹿児島市の史跡めぐりガイドブック-四訂版-」鹿児島市教育委員会・平成11年3月発行)
造士館は、江戸にあった幕府の昌平黌をもとにつくられ、山本正誼が初代館長となり、数百名の生徒に、儒学のうち朱子学だけを教えました。演武館では、剣、弓、槍、馬、銃などの稽古が行われました。
また、重豪は、医学について非常に関心が強く、造士館の南となりに、医学を研究する医学院をつくり、薬園を吉野、佐多、山川に開きました。
(出典:「鹿児島市の史跡めぐりガイドブック-四訂版-」鹿児島市教育委員会・平成11年3月発行)
照國神社
名君・島津斉彬公を祀る鹿児島市最大の神社
島津家第28代当主・島津斉彬公を祀る神社です。鹿児島市で最も大きな神社として、多くの参拝者が訪れています。
文久3年(1863年)、天皇から島津斉彬公に「照國大明神」の神号が授けられ、翌年、南泉院跡に社殿が建てられ、照國神社となりました。
西南戦争により社殿と宝物を焼失し、明治15年(1882年)に復興されたものの、昭和20年(1945年)に戦災で再び焼失しました。昭和33年(1958年)に復興造営され、現在は鉄筋コンクリート造りになっています。
入館料無料の資料館があり、境内には斉彬公、探勝園には久光公・忠義公の銅像もあります。
(出典:「鹿児島市の史跡めぐりガイドブック-四訂版-」鹿児島市教育委員会・平成11年3月発行)一部抜粋
毎年7月15日、16日に開催される県内最大規模の六月灯(夏祭り)では、境内に色とりどりの灯籠が飾られ、大勢の人々でにぎわいます。その他「新春縁起初市」など年間を通して様々な催し物が行われます。
文久3年(1863年)、天皇から島津斉彬公に「照國大明神」の神号が授けられ、翌年、南泉院跡に社殿が建てられ、照國神社となりました。
西南戦争により社殿と宝物を焼失し、明治15年(1882年)に復興されたものの、昭和20年(1945年)に戦災で再び焼失しました。昭和33年(1958年)に復興造営され、現在は鉄筋コンクリート造りになっています。
入館料無料の資料館があり、境内には斉彬公、探勝園には久光公・忠義公の銅像もあります。
(出典:「鹿児島市の史跡めぐりガイドブック-四訂版-」鹿児島市教育委員会・平成11年3月発行)一部抜粋
毎年7月15日、16日に開催される県内最大規模の六月灯(夏祭り)では、境内に色とりどりの灯籠が飾られ、大勢の人々でにぎわいます。その他「新春縁起初市」など年間を通して様々な催し物が行われます。
探勝園
島津家第25代当主重豪公が建立した庭園
二の丸庭園であった探勝園のあとには、斉彬が本丸と電信の実験を行った電信使用の地の碑や探勝園の碑がたっています。探勝園は、島津家第25代当主重豪公のときにつくられ、はじめは千秋園と呼ばれていました。27代当主斉興公のときに手を加え探勝園と名づけられました。すばらしい庭園であったといわれます。
探勝園には、明治維新に大きく貢献した島津久光公・忠義公父子の銅像があります。上段が久光公、下段が忠義公の銅像です。斉彬公・久光公・忠義公の銅像は、大分県竹田出身の朝倉文夫がつくりました。
(出典:「鹿児島市の史跡めぐりガイドブック-四訂版-」鹿児島市教育委員会・平成11年3月発行)
探勝園には、明治維新に大きく貢献した島津久光公・忠義公父子の銅像があります。上段が久光公、下段が忠義公の銅像です。斉彬公・久光公・忠義公の銅像は、大分県竹田出身の朝倉文夫がつくりました。
(出典:「鹿児島市の史跡めぐりガイドブック-四訂版-」鹿児島市教育委員会・平成11年3月発行)
鹿児島城二之丸跡
日本遺産認定の鹿児島城(鶴丸城)。鹿児島市民も知らないことも!?
地元ガイドの案内で“鹿児島市の歴史シンボル”がもっと楽しくなります。
一気に鹿児島通になれちゃうかもしれませんよ。
地元ガイドの案内で“鹿児島市の歴史シンボル”がもっと楽しくなります。
一気に鹿児島通になれちゃうかもしれませんよ。
本丸跡(御楼門)
御楼門(ごろうもん)は、鹿児島城(通称:鶴丸城)の本丸の大手門。明治6(1873)年に火災で焼失しましたが、城山を背景に、国内でも最大級の荘厳な門でした。復元され、高さ・幅ともに約20メートル。屋根に取り付けられた2基の鯱(しゃちほこ)も国内最大です。まち歩きガイドの分かりやすい説明も楽しんでください。
天璋院篤姫像
幕末動乱の世に江戸城の大奥を取り仕切った、徳川第13代の御台所
13代将軍徳川家定の御台所(正室)となり、幕末動乱の世にあって江戸城の大奥を取り仕切った天璋院(篤姫)の像です。
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