仙巌園と集成館~桜島を望む島津家の別邸。雄大な景色と世界遺産を体感できる感動スポット! ~-1

仙巌園と集成館~桜島を望む島津家の別邸。雄大な景色と世界遺産を体感できる感動スポット! ~

2015年に世界文化遺産に登録された「明治日本の産業革命遺産」。
その構成資産である「旧集成館」は、島津家歴代の別邸「仙巌園」の敷地内及び周辺エリアにあります。ここから始まった日本の近代化を散策してみましょう。

桜島を望む絶景の地に、島津家の別邸として

仙巌園は、万治元年(1658)島津家19代光久によって築かれ、桜島を一望できる庭園のすばらしさは、鹿児島県を代表する景色の1つです。四季それぞれの花が咲く1万5千坪もの敷地には、薩摩藩・島津家に関する資料や文化財が展示されている尚古集成館、御殿があり、日本の近代化を牽引した地として一帯は2015年に世界文化遺産に登録されました。
●営業時間 8:30~17:30(年中無休)  
●所在地:〒892-0871 鹿児島市吉野町9700-1
 

広大な敷地を彩る花々に癒され、数多くの神社にパワーをもらう

随所に風水の影響が色濃い広大な敷地では、歴代のお殿様が造った池やモニュメント、梅や桜、菊など四季を通じて美しい花々が楽しめます。
また、さまざまな神社が点在し、パワースポットとしても注目を集めています。園内のおすすめスポットをいくつか散策してみましょう。
 
  • 鶴嶺神社-1

    鶴嶺神社

    島津家歴代とその家族が祀られています。
  • 御庭神社-1

    御庭神社

    鶴丸城内にあった神社など島津家にゆかりのある13の神社を祀っています。
  • 猫神-1

    猫神

    17代義弘は猫の瞳の変化で時刻を読み、戦に役立てたと言われます。戦場から薩摩へ戻った二匹の猫を祀った神社で、多くの人に人気のスポット。
  • 千尋巌-1

    千尋巌

    巨岩に刻まれた「千尋巌」の3文字は約3900人もの人が3ヶ月間かけて刻んだもの。27代斉興によって造られました。
  • 江南竹林-1

    江南竹林

    21代吉貴が、当時まだ日本では繁茂していなかった江南竹(孟宗竹)を2株、中国から琉球を経由して取り寄せ、この地に植えたのが始まり。
  • 望嶽楼-1

    望嶽楼

    琉球国王から献上された、異国情緒あふれる東屋。28代斉彬と勝海舟がここで会談をしました。

藩主の暮らしが垣間見える趣ある御殿

日本の南の先端から西洋の文化を吸収した島津家のお殿様が暮らした御殿は、幕末から維新後にかけては迎賓館として国内外の賓客を迎えました。武家屋敷としての建築および意匠、調度品に至るまで、各時代時代のお殿様の息遣いや暮らしぶりが偲ばれる貴重な建物です。
  • 謁見の間-1

    謁見の間

    ロシア皇帝など国内外の賓客を迎えた格式ある広間。
  • シャンデリア-1

    シャンデリア

    電気が普及していなかった明治時代のもので、園内の水力発電所で発電して使用していたシ ャンデリア。今も謁見の間を照らし続けています。
  • 中庭-1

    中庭

    風水を取り入れた設計で、縁側から観賞できます。
  • 釘隠し-1

    釘隠し

    御殿内に11種類ある釘を隠すための飾り。桜島大根やコウモリなどユニークなデザインも。
  • 居間-1

    居間

    書類の決裁や執務をした部屋。どの部屋よりも一番美しく庭園が見渡せます。
  • 薩摩焼-1

    薩摩焼

    16世紀に朝鮮から渡来した陶工によって始められた鹿児島を代表する工芸品。斉彬の代に誕生した豪華絢爛たる近代薩摩焼はヨーロッパでも珍重されました。

Column

本邸・鹿児島城(鶴丸城)も観てみよう!-1

本邸・鹿児島城(鶴丸城)も観てみよう!

仙巌園は別邸。藩主の居城は慶長6年(1601)に島津忠恒(家久)によって城山麓に築かれた鹿児島城、別名「鶴丸城」でした。別名の由来は鶴が羽を広げたような優美な形状であったことから。廃藩置県以降は、別邸が本邸になり、29代忠義は約10年間、仙巌園で過ごしました。鹿児島城の当時の建物遺構は残っていませんが、石垣と堀は当時のまま残されており、2020年に再建された威風堂々たる御楼門が薩摩藩の栄光と時代の変遷を感じさせて感慨深いスポットです。本邸と別邸、両方を観て鹿児島の歴史と文化をディープに感じてみませんか?

仙巌園と隣接する地で推進された集成館事業。 日本の近代化はここから始まった!

反射炉、溶鉱炉、ガラス工場、紡績工場、蒸気機関の製造所などの工場群の名称が「集成館」。その事業全体を集成館事業と呼びます。28代斉彬の時代、御殿と庭園の地続きである磯の地にそれらの工場群はありました。今、その中で現存する日本最古の「洋式工場」は、「現:尚古集成館本館」となって、日本の近代化の変遷を見ることができる貴重な博物館として機能しています。
そしてもう一つ、「旧鹿児島紡績所技師館」は、別名「異人館」と呼ばれ、美しい洋館として旅人を魅了。実はこの建物こそ、日本を本当の意味で近代化に導いたジャパニーズシルクを生み出した場所。世界遺産に登録された薩摩のモノづくりを振り返ってみましょう。

 

近代化にバトンをつないだ二人のヒーロー!島津斉彬と石河確太郎 その人物像と功績に触れる。

28代斉彬の先見性
西洋文明に明るく、かつその知識を持って、世界と日本の経済力・軍事力の差に危機感を覚え、列強の植民地支配(一部)を受けた清国のようにならないようにと殖産事業(富国強兵の礎となる集成館事業)に邁進した斉彬。
斉彬の描いた日本の近代化とはどのようなものだったのでしょう。

立地から学んだ先見性で!西欧列強の軍事力に負けない富国強兵政策に着手。
19世紀、西欧列強が次々にアジアに進出する中で、日本の南端に位置する薩摩藩は外国の脅威に最初に接する場所でした。アヘン戦争に敗れた清国の一部がイギリスの植民地になったことなどから、斉彬は日本を外国に負けない強く豊かな国にしなくてはならないと考え、磯の地に「集成館」と名付けた工場群を建設します。

まずは軍備の強化。そしてジャパニーズシルク、薩摩焼や切子などの特産品まで!
斉彬は近代的な大砲の生産や造船に力を注ぎ、嘉永5年(1852)、反射炉建設に着手。さらに外国との交易のために、薩摩切子や薩摩焼などの工芸品や紡績(織物)なども手掛けます。しかし安政5年(1858)、夢半ばで斉彬は急逝。7年間にわたった近代化事業は大幅に縮小されてしまいました。

薩英戦争で知った外国との圧倒的な力の差!
その後、生麦事件が発端となって文久3年(1863)に起きた薩英戦争で、薩摩藩は外国との圧倒的な力の差を思い知らされました。その時薩摩の人々は、斉彬が推進していた近代化の重要性に改めて気づいたのです。
斉彬の遺志を継ぎ、29代忠義と父・久光は集成館事業を再開します。若き藩士たちも積極的に西洋の進んだ技術や知識を学んでいきました。その中に後のジャニーズシルク発展の功労者、石河確太郎もいました
 

石河確太郎の功績

薩摩は明治維新の前後に多くの偉人を輩出し、新しい日本を牽引しましたが、薩摩藩の蘭学者だった石河確太郎もその一人。日本がアジアの他の国々のように西欧列強の支配を受けずに済んだのは、富国強兵の一環で紡績事業を推進した成果と言っても過言ではありません。特に品質の良かった絹製品は世界中から注文が殺到して外貨獲得に貢献しました。その立役者が石河確太郎でした。
斉彬から紡績業の重要さを教えられていた石河は、鹿児島をはじめ全国に紡績工場を築いて回り、薩摩出身や薩摩所縁の技術者が彼を補佐し、ジャパニーズシルクの黄金期を築きました。
 

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日の丸誕生 斉彬が国旗のルーツを造った?!

嘉永6年(1853)、斉彬は洋式船を建造するに際し、日の丸を日本の総船印(そうふなじるし)とするよう幕府に提案しました。帆が一つしかないなど世界的にも特異な形をした和船に比べ、洋式船だと日本船か外国船か判別しにくくなるため、日本の船であることを示す旗が必要というのが理由でした。幕府はそれを認め、安政元年(1854)に日の丸を総船印に採用しました。斉彬は洋式帆船の帆布を自分たちで製作するために、紡績事業にも力を入れたといわれています。

全部、地続き!おススメスポットご紹介

  • 島津薩摩切子ギャラリーショップ 磯工芸館-1

    島津薩摩切子ギャラリーショップ 磯工芸館

    1909年に建設され、国の登録有形文化財に指定された洋館を利用した島津薩摩切子の直営店。薩摩切子のほか、薩摩ボタン・錫・屋久杉工芸品など鹿児島が誇る品々が揃う。
    もっと見る
  • 有形文化財スターバックス「スターバックス鹿児島仙巌園店」-1

    有形文化財スターバックス「スターバックス鹿児島仙巌園店」

    仙巌園に隣接する有形文化財「旧芹ケ野島津家金山鉱業事業所」をリノベーションしたお店

受け継がれた夢。
薩摩藩士・石河確太郎と二つの世界遺産

明治時代、日本の基幹産業となった近代紡績業。斉彬から紡績技術の重要さを教えられていた蘭学者、石川覚太郎は、斉彬亡き後、紡績事業の重要性を忠義に伝え、イギリスから紡績機械を購入するように進言します。薩摩藩はイギリスに使節団を送り、紡績機械を購入するとともに指導に当たる技師も来日させます。もともと藩独自の技術で大幅織機を製作していた薩摩の人々は、わずか1年で洋式紡績の技術を習得。明治時代になると、その技術と知識は全国に広まっていきました。その先頭にはいつも石河確太郎がいました。

ジャパニーズシルクブランドへの道

慶応元年(1865)に使節団としてイギリスに渡った五代友厚らは紡績機械とともに優れた技師も日本に呼び寄せました。集成館の西隣に紡績工場と技師館(異人館)の建設が始まりました。そして慶応3年(1867)に、わが国初の洋式機械紡績工場・鹿児島紡績所が操業を開始しました。日本を西欧列強のような強く豊かな国にするという斉彬の夢は、明治政府の高官となった大久保利通や、寺島宗則、黒田清隆、そして石河確太郎の手によって推進され、現実のものになったのです。

ズームアップ!石河確太郎 薩摩藩および日本の近代化に貢献した行動派知識人

学者であり、翻訳者でもあり…斉彬を支えた優秀な部下だった!
薩摩藩蘭学者、石河確太郎はその語学力と博識において日本の近代化を推し進めようとした斉彬の集成館事業に無くてはならない有能な部下でした。

西洋の生糸の美しさに魅せられ、研究を重ねて。
斉彬は確太郎をはじめ蘭学者たちにオランダの書物を翻訳させて、鶴丸城で実験を繰り返させ、その情報をもとに集成館の工場でさまざまな産業を事業化していきました。紡績における斉彬と確太郎の絆は深く、西洋の生糸の美しさに驚いた斉彬が確太郎にこの糸と一冊の洋書を示し、その研究を命じたことからジャパニーズシルクへの道のりが始まりました。

斉彬の遺志を次々に実現させて日本各地に紡績工場を建設。
確太郎は鹿児島紡績所に引き続き、日本各地に紡績工場を手掛けていきました。中でも有名なのが富岡製糸場です。確太郎は日本の近代化を果たした二つの世界遺産を手掛けた人物でもあるのです。
 

世界最大規模の製糸工場!富岡製糸場

安政6年(1859)に横浜港が開港され、外国との貿易が始まると、生糸が代表的な輸出品となりました。産業革命を終えたヨーロッパではシルクの機械織が急成長し、生糸の需要が増大していたのです。

明治維新後、富国繁栄・殖産興業をめざした政府は外貨獲得のために生糸の輸出を国策とし、品質向上と大量生産を課題とし、製糸産業の育成をはかることを決定。官営の機械製糸工場を建設することになりました。工場建設地として選ばれたのが群馬県にある富岡市。世界最大規模の製糸工場が日本に誕生しました。

格式高い家柄の出身者が工女となって技術を学び、やがて出身地に戻り、機械製糸の指導者として活躍しました。確太郎はここでも政府の官僚として運営と指導に貢献しました。近代日本の発展の礎となった製糸産業のルーツを遡ると鹿児島へたどり着く…。壮大な歴史の動きを感じませんか。
 

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受けつがれた思いと技術

明治期に基幹産業となった紡績業は、斉彬の考えをもとに、その部下である元薩摩藩士石河確太郎らによって基礎が造られました。これを草創期として慶応3年(1867)に鹿児島紡績所、明治3年(1870)に堺紡績所が、続いて明治5年(1872)に鹿島紡績所が建設され、いわゆる始祖三紡績が築かれました。

その後は愛知紡績所、広島紡績所を初め日本各地に紡績所が建設・稼働し、これを十基紡といいます。これらの建設には必ずと言っていいほど石河確太郎が関与しており、紡績技術の普及に努めたのは薩摩藩が設立した鹿児島紡績所や堺紡績所の技術者たちでした。

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