川上操六 かわかみ そうろく

1848(嘉永元)年~1899(明治32)年

吉野町中ノ町(旧・吉野村)に生まれた。父伝左衛門は吉野村中ノ町方限の支配役をつとめていた。少年時代から学問好きで、16歳で藩校造士舘に学び、のち館の師員に列せられた。

戊辰戦争では分隊長として、鳥羽・伏見から出羽庄内(山形県)での戦いに参加した。1871(明治4)年、上京して親兵となり陸軍大尉になった。1873(明治6)年、近衛歩兵隊第3大隊長となった。彼は、西郷の感化を受け、かわいがられた一人であったが、西郷が帰郷する際、共に郷里に帰るべきか、どうかを深く思い悩んだ。しかし、義においては、天皇の軍人であるとして思い止まり、西郷従道や大山巌らと東京に残り、西南戦争では政府軍として熊本城にたてこもり、活躍した。

その後、連隊長となり、1884(明治17)年~1886(明治19)年とヨーロッパに渡り、ドイツ兵制を研究した。1889(明治22)年、参謀本部長に再任され、日本陸軍の兵制をフランス式からドイツ式に改めることに努力した。日清戦争では、大本営で作戦を指導し、戦後、陸軍大将、陸軍参謀長となった。明治32年5月11日、病気で亡くなった。

(出典:「鹿児島市の史跡めぐり人物編」鹿児島市教育委員会・平成2年2月発行)


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歴史・史跡

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