島津重豪 しまづ しげひで

1745年(延享2)~1833年(天保8)

鹿児島市で一番にぎやかな天文館通りは昔、望遠鏡などの天文観測器具を置き、「薩摩暦」をつくるための天文館(はじめ明時館)が置かれていた所である。電車通りから城山へ向かうアーケード街のはずれに天文館跡の石碑が建っている。この天文館をつくったのが、薩摩藩の政治を大きく変えた島津重豪という藩主である。

重豪は1745年(延享2)、鹿児島で生まれたが、母は重豪を生んだ日に亡くなった。5歳の時、加治木島津家をついだ。

1755年(宝暦5)、重豪がわずか11歳の時、第25代の薩摩藩主になった。

重豪は、薩摩藩は日本の最南端にあるので、武士の教育がじゅうぶんでないという心配があり、儒学で士気をふるい起こそうと考えた。また、進取の気性に富み、学問好きであったため、オランダ商館長やシーボルトとも親交があった。このようなことから、藩の政治にも積極的な開化政策を取り入れる基になった。

1772年(安永元)、中央公園あたりに藩の学校造士館を建て、8歳から22歳までの若者に朱子学を中心に学問をすすめた。また、造士館のとなりに武道場として演武館を建て、文武両面のたん練をすすめた。こうして、薩摩藩には学問や教養のある若者が多くなった。さらに、重豪は医学についても非常に関心が強く、造士館の南どなりに医学を研究する医学院をつくり、吉野にも薬園をつくって、薬の原料になる薬草を植えさせた。ついでに1773年(安永2)、明時館も建てた。

そのほかに、重豪の命令で編さんさせた「成形図説」は、藩内の農業・植物・動物などについて書いた本で、百科辞典のようなものである。100巻分の原稿ができていたが、版木が2回も焼失して、そのうち30巻が刊行された。さらに、中国語の本である「南山俗語考」や鳥類のことを書いた「鳥名便覧」、藩内の薬草の「質問本草」などがある。重豪は、古くさい空気が支配して、文化的に遅れている薩摩をたてなおすために、いろいろの文化事業を起こした。上方から商人の移住することを許可して、商業の繁栄もはかったのである。

重豪の三女茂姫が一橋豊千代に嫁ぎ、やがて豊千代が第11代の将軍となると、その力が強くなり、幕府の有力者が藩の屋敷を訪れるようになった。このため、「高輪下馬将軍」とうわさされた程である。しかし、重豪の政策は、たくさんの出費をともない、それまでの借金も多かったので、藩の財政は大へん苦しくなった。財政をたてなおすために調所広郷に改革を命じたが、その途中で89歳の生涯を終えた。彼の開明的な考え方は曽孫の島津斉彬によって引き継がれていった。

(出典:「鹿児島市の史跡めぐり人物編」鹿児島市教育委員会・平成2年2月発行)


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