中原猶介 なかはら ゆうすけ

1832(天保三3)年~1868(明治元)年

城下上荒田(現・上之園町)で中原尚道の次男として生まれた。名を尚勇、鉄心斎と号した。

幼い頃から厳格な家庭に育てられ、文武の道に励んだ。また、西洋文化の研究を行い、海外の事情に詳しかった。

1849(嘉永2)年、藩命によって長崎に出張し、オランダ人に蘭学を学んだ。1851(嘉永4)年、第28代藩主島津斉彬に呼ばれて藩に帰った。斉彬公に用いられ、反射炉や軍艦を造った。その後、江戸で学ぶよう命ぜられ、安井息軒の門に入って漢学を学んだり、杉田成卿について蘭学を学んだりした。1857(安政5)年、軍器兵制を改良したり、軍隊の訓練にあたったりした。

1858(安政5)年、斉彬が亡くなった後、藩の政治が急に変わり、猶介も職を失ったため、諸国を巡り江戸に出た。二度にわたって江川太郎左衛門の塾で学び、1862(文久2)年には塾頭に挙げられた。のち帰藩し、薩英戦争後の海軍の復興、砲台の改善などに努めた。禁門の変では軍賦役となり活躍した。

1866(慶応2)年、英国公使が薩摩を訪問したときは接待役となって実弾演習を行った。

1868(明治元)年、戊辰戦争には海軍参謀となり、越後・長岡にて戦病死した。37歳であった。

現在、甲南高校内に宅跡の碑がある。

(出典:「鹿児島市の史跡めぐり人物編」鹿児島市教育委員会・平成2年2月発行)


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歴史・史跡

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