黒木為楨 くろき ためもと

1844(弘化元)年~1923(大正12)年

鹿児島市加治屋町の生まれ。帖佐為右衛門の三男で、黒木家を継ぎ、通称「七左衛門」といった。

戊辰戦争には、川村純義率いる城下4番隊員として、鳥羽・伏見から東北へ転戦し、のち1869(明治2)年に設けられた鹿児島藩常備隊の1番大隊1番小隊長となった。

1871(明治4)年、御親兵として上京、陸軍大尉。1875(明治8)年には中佐に進んで歩兵第12連隊長となり、西南の役では別働第1旅団の先ぽうとして日奈久(熊本県)に上陸、薩軍の背後をついた。

その後、近衛歩兵の第2連隊長、第2旅団長などを歴任。

1893(明治26)年11月、陸軍中将に進んで、第4代の第6師団長となった。翌年、日清戦争が起きると、南九州健児を率いて威海衛攻略戦に功績をたてた。日清戦争後、近衛師団長、西部都督を歴任。この間、1903(明治36)年11月、陸軍大将に進んだ。

1904(明治37)年、日露戦争が起こり、2月、為楨は第1軍司令官となり、近衛第2、第12の3個師団を率いて朝鮮半島に向かった。同年4月末、鴨緑江を渡ることに成功、5月1日には九連城を攻め落とし、12日には鳳凰城に入りみごと期待に応えた。その後、遼陽会戦、奉天会戦に勇名をはせた為楨は輝かしい戦果をあげて日本に帰り、その功績により伯爵となった。

軍隊を退いた後は湘南(現・神奈川県)に引きこもり、畑いじりにいそしんだが、1923(大正12)年2月4日死去。

ゼネラル・クロキ死亡の知らせに、ニューヨーク・タイムズは長文の社説をかかげ、武人為楨のおもかげを偲んだといわれる。

(出典:「鹿児島市の史跡めぐり人物編」鹿児島市教育委員会・平成2年2月発行)


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歴史・史跡

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