加納久宜 かのう ひさよし

1848(嘉永元)年~1919(大正8)年

加納久宜は三池(現・福岡県)藩主立花種善の弟の種道の三男として、江戸(現・東京都)に生まれ育った。

5、6歳のころの久宜は、学問より乗馬が好きな少年であった。久宜が8歳の時に両親を大地震で失った。その後兄の家にひきとられ、そこで暮らした。

1894(明治27)年、鹿児島県知事に任命された。知事になった久宜は県下各地を見てまわり、鹿児島県の遅れた産業と教育をなんとかしようと考えた。農業をたてなおすために農事小組合や試験田をつくり、農学校を創設した。米づくりのほか、みかん、茶、養蚕などの改良普及、また、遠洋漁業、かつおぶしつくり、製塩などの技術改良にも力を入れた。こうして、県の産業は順調に進んでいった。

教育にも力を入れた。たくさんの人が勉強できる場をつくったり(子もり学級等の設置)、学用品が安く買えて、父母の負担を軽くすることにも気を配った。また、中学校をつくったり、第七高等学校造士舘の開設にも力を注いだ。さらに、図書館設立運動を起こし図書館もつくった。(現・県立博物館の前身)

久宜は、6年8ヶ月の在任中に私財を投げうって産業・教育の発展につくし、1900(明治33)年、県民に惜しまれながら辞めた。後に「勧業知事」と県民にしたわれた久宜も72歳で亡くなった。晩年には鹿児島のことをよく話題にし、「もし、我輩が亡くなっても、鹿児島のことで何か話があったら冥土に電話せい」と口ぐせのように言っていたといわれる。鹿児島のことを深く考え、愛した、人物であった。

現在、かごしま県民交流センターの前庭に「加納久宜知事頌徳碑」が建っている。

(出典:「鹿児島市の史跡めぐり人物編」鹿児島市教育委員会・平成2年2月発行、「松尾れい子編 加納久宜」)


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歴史・史跡

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