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更新日:2013年11月6日

日本の南端から、イノベーションを起こそうともがいた薩摩

三国を治めた島津氏とは

薩摩藩の藩主であった島津氏。もともとは鎌倉時代初期に、薩摩国・大隅国の2カ国と日向国の守護に任ぜられた惟宗広言が九州に下り、その息子の忠久が島津を名乗ったのが始まりと言われています。 戦国時代において、力量を発揮した16代当主の島津義久は3人の弟たちとともに九州統一を図りますが、豊臣秀吉に敗北し、島津家存続のために降伏を選び、領土の承認を得ました。徳川政権下では徳川家と親戚関係を持つなど、将軍家との結びつきを強くしていきます。11代将軍・徳川家斉の正室・広大院、大河ドラマでも取り上げられた篤姫は13代将軍・徳川家定の正室と、島津家は外様大名でありながら将軍家御台所を2人も輩出したことから、当時の影響力の強さが伺えます。幕末には28代当主の島津斉彬が、強大化する西欧諸国に対抗しようと、造船や紡績、洋式製鉄といった近代産業に取り組みました。

 

これらの一端は、博物館である「尚古集成館」の展示物などで見ることができます。また、「仙巌園」や「旧島津氏玉里邸庭園」では、島津家当主が愛した庭園を公開しています。殿様と同じ景色を眺めてみるのも一興です。

薩摩の革新者“島津斉彬”

“薩摩藩”と聞いて思い浮かぶのは、やはり幕末~明治維新ではないでしょうか。

このキーワードでは、西郷隆盛や大久保利通などが有名ですが、彼らに大きな影響を与えたのは28代当主・島津斉彬です。そのころ日本は、江戸時代の初めに決めた鎖国の最中。外国の文化や新しいものが好きだった曾祖父(島津重豪)にかわいがられたこともあり、斉彬は成人してからも海外の情報を熱心に調べていました。そんな時に中国がイギリスに侵略されたことを知り、日本も新しい技術を取り入れて軍事力を高め、外国との戦争に負けない国にするべきだと考えます。43歳で当主になるとすぐに、島津家の別荘に大きな大砲をつくるための設備を設けたり、大砲を備えた軍艦を造ったり。

ヨーロッパの技術を用いた新しい工場も多く造っています。 49歳、志半ばで生涯を終えた斉彬。その後、薩摩はイギリスに戦争を挑んで惨敗するという経験をしますが、それをきっかけに斉彬の偉業を再確認します。積極的に最新技術を学ぼうと、負けたイギリスへ留学生を派遣したほどです。

海を渡ったSATSUMAブランド

日本の南端にありながら、広い視野を持っていた薩摩藩。前述の島津斉彬は、軍事力を高める一方で外国との貿易を行い、日本を豊かにすることも考えていました。

そこで生まれたのが「薩摩切子」や「薩摩焼」です。斉彬が生きているときには叶いませんでしたが、明治時代になると、これらの美術工芸品はヨーロッパにおいて高値で取り引きされます。ブランド名は“SATSUMA”。特に、薩摩焼は現在でも海外でSATSUMAと呼ばれています。これらは時代の感性を取り入れながら今に引き継がれ、鹿児島を代表する工芸品として親しまれています。