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更新日:2015年5月12日

日本近代化の原動力となった「集成館」を体感しよう

磯地区を中心に多くの「近代化産業遺産」が点在

全国各地には、日本の産業近代化の過程を物語る建造物や機械、文書などが数多く残されています。その歴史的価値を広く知って欲しいと、経済産業大臣が認定したものが『近代化産業遺産』です。現在は「近代化産業遺産群33」(平成19年度)、「近代化産業遺産群 続33」(平成20年度)として、それぞれ33のストーリーを公表しています。

 

そのなかのひとつが、日本初となる洋式工場群の「集成館」です。今の磯地区には、大砲鋳造のための様々な施設や造船所、紡績所、ガラス工場などが立ち並んでいました。これらの工場や施設を動かすために利用されていたのは水力や木炭。集成館の近くには大きな川がないため、背後の吉野台地を流れる稲荷川から水を引いて水車動力にしました。取水口となった「関吉の疎水溝」(鹿児島市下田町)から集成館へつながる疎水溝は、現在でも一部が農業用用水路として使われています。
また、大量の鉄を溶かすための燃料として用いた木炭を作っていた「寺山炭窯跡」では、シイやカシを使った火力の強い白炭が焼かれたと言われています。

日本とそこに暮らす人の未来を見つめた島津斉彬

写真:菊まつり

「集成館」は工場群の総称。この事業を興し、名前をつけたのが嘉永4(1851)年に薩摩藩主となった島津斉彬です。蘭癖(らんべき)と言われるほど西洋のものごとに通じていた曾祖父の重豪の影響を受け、早くから海外の文化や情報に興味を持つようになりました。その頃の日本といえば、江戸時代から続く鎖国の真っ只中でした。隣国の清(中国)は、1840年にイギリスと戦争になり敗れ、不平等な条約を結んでいました。広い海と接する薩摩藩は、外国船の対応に追われることもしばしば。浦賀に黒船がやってくる前から、大きな危機感を抱いていたのです。
そこで斉彬は藩主になるとすぐに近代的な技術の導入を始めました。別邸であった仙巖園の隣りに「集成館」を造り、さまざまな産業を興すことで国を強くし、人々の暮らしまでも豊かにしてこそ、外国と対等に話をすることができる。そんな信念を持っていたからこそ、人材の登用には藩や身分を問いませんでした。後にここで育った人材が全国へ技術を広めることになります。薩摩藩だけの近代化ではなく、日本全体を強く豊かに。その思いがあったからこそ、集成館事業が成し遂げられたと言えるでしょう。

多くの事業を成し、産業と人材を育てた「集成館」

写真:仙巌園伝統の木造り

集成館事業の中心は磯地区でした。今でも当時の工場や建物が残されており、見どころもたっぷり。なかでも「旧集成館の反射炉跡」では、高炉で溶かした鉄鉱石や砂鉄を再び溶かして鋳型にはめ、大砲の砲身を造っていました。精密に組まれた石組みや、山からの湿気を断つための通気口も確認できます。「旧集成館機械工場」は、日本で最も古い洋式石造工場ですが、基礎部分に亀腹石と呼ばれる和風の建築様式を採用。亀腹石を用いることで水はけをよくしていました。現在は尚古集成館本館として当時の様子や資料を伝える博物館に。

 

写真:庭園

これらから少し離れたところにあるのが「旧鹿児島紡績所技師館」(通称異人館)です。イギリス人技師の宿舎として建てられた木造の建物で、見た目は洋館ですが、ここでも設計に日本の建築技術が使われています。他にも仙巖園内にある発電用ダム跡や薩英戦争時に使われた砲台跡など、市内各所に近代化産業遺産が点在。パンフレットや資料を片手に訪ねてみるのもよさそうです。
短期間に飛躍的な近代化を遂げた薩摩藩の集成館事業は、現在の日本の近代化の先駆けでした。数多くの事業に取り組んだおかげでたくさんの技術者が育ち、全国に伝えていきました。