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更新日:2013年4月1日

島津久光(しまづ ひさみつ)

1817年(文化14)~1887年(明治20)

第29代薩摩藩主忠義の父。斉彬の異母弟にあたり、斉興の第五子として鹿児島城に生まれた。生母は斉興の愛妾お由羅である。本名は初め忠教、邦行、のち久光と改めた。幼名は普之進、次に又次郎、山城、周防、和泉、三郎といい、大簡、双松、玩古道人、無志翁などの号がある。

1858年(安政5)、斉彬の遺言で第29代藩主となったのは久光の子忠義であった。久光は忠義の求めに応じて「国父」として藩政の実権を握り、忠義を後見し、実質上の藩主として登場した。

1862年(文久2)、大久保利通などの精忠士(まことを尽くす武士)とともに斉彬の遺志を継ぎ、中央政界への進出を志し、1000人の兵を率いて上京した。京都の船宿寺田屋にいた有馬新七ら薩摩藩の過激な尊王穣夷派の志士を弾圧し公武合体運動を進めるために勅使大原重徳を奉じて、幕府の政治改革を行うことに成功した。久光は江戸から帰る途中、生麦事件を引き起こし、翌、文久3年、薩英戦争になった。鹿児島城下の集成館や家屋も焼失したが、イギリス艦隊を撃退することができた。

その後、公武合体運動(幕府と朝廷が力を合せて政治にあたろうという考え)を進め、再び政局の主導権を握り、一橋慶喜や松平春嶽らとともに朝議参与となり、禁門の変では会津藩と組んで長州兵と戦った。第2回の長州征伐では西郷、大久保の意見を入れて、一兵も出さず、長州と同盟を結んで倒幕路線を歩んだ。明治維新の版籍奉還、廃藩置県などの諸改革が行われると、久光は内心不満を抱いたが、率先して行うなど、旧公家(朝廷に司える人)や大名勢力の中心であった。

西郷隆盛が参議を辞めて帰国した後、内閣顧問に任ぜられ、翌年、左大臣に任命されたが、保守的な傾向が強くて政府首脳と対立し、1875年(明治8)辞任して、郷里鹿児島の玉里邸に隠退した。そして、1887年(明治20)12月6日、70歳で病死し、国葬によって福昌寺墓地に葬られた。

現在、照国神社隣りに、斉彬、忠義、久光の銅像が建っている。

(出典:「鹿児島市の史跡めぐり人物編」鹿児島市教育委員会・平成2年2月発行)

 

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