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更新日:2013年4月1日

西郷隆盛 (さいごうたかもり)

1828年(文政10)~1877年(明治10)

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貧しい下級武士の子として鹿児島城下に生まれた。

少年時代は造士館に通って勉強し、13歳の頃、友人とけんかして右腕をけがしてから武道への志を捨て、いっそう学問にはげむようになった。

17歳のとき郡方書役助という農村をまわって農業の様子を調べ、年貢をとる役人になり、農民のみじめな生活を知る。そして農業についての意見書を藩庁にたびたび出した。

このことが藩主島津斉彬に認められ、斉彬の信頼を受けて、やがて日本の西郷として活躍するようになる。斉彬が急死したとき、西郷は死のうとしたが、京都清水寺の僧、月照に斉彬の遺志を受けついで強く生きぬくようにさとされる。

幕府による安政の大獄がおこると、僧、月照を薩摩藩にかくまってやろうと努めたが、藩はこれを許さなかった。西郷は死を決意して月照とともに、鹿児島湾に身を投げた。西郷だけが助かり、奄美大島の竜郷にひそむことになった。島の人たちは、はじめは罪人と思って近寄らなかったが、西郷は日ましに子供たちと仲よくなり、読み書きを教えた。そして愛加那を嫁にもらい、菊次郎も生まれた。

しかし、天下のことを思うとじっとしていられない西郷は、1862(文久2)年、許されて鹿児島に帰った。藩主島津忠義の父、久光は、幕府と朝廷が手を結ぶという公武合体の政治を実現するために、千人余りの兵をひきいて京都に上ることになった。その先発隊として西郷は出かけたが、下関で待てという久光の命令にそむいて大阪に向かう。久光はたいへん怒り、西郷は徳之島に流され、さらに沖永良部島に流された。そこでは土持政照の世話になり、川口雪蓬から書や詩を習い、また、ろう屋の中から子供たちを教えた。

西郷が流罪になっている間、薩英戦争もあり、世の中はめまぐるしく変わった。藩としても西郷の力に頼らなければならなくなり、沖永良部から呼び戻された。西郷が37歳のとき、京都で禁門の変が起こった。西郷は長州軍と戦い、ひきつづいて参謀となり、武力を使わずに長州征伐を片付けてしまう。西郷のこの処置に対して、幕府は、第2回めの長州征伐を決める。薩摩藩にこの命令が出されると、これを拒否し逆に長州と同盟を結んで、武器の購入などの手伝いをした。坂本龍馬はこのころの西郷に「西郷は小さくたたけば小さく響き、大きくたたけば大きく響く。残念なのはその鐘をつく撞木が小さいことだ」とほれこんでいる。1867(慶応3)年、将軍慶喜が大政を奉還し、政権が朝廷に返された。西郷の率いる薩摩藩などの兵が見守る中で、王政復古の大号令が発せられ、天皇中心の明治政府が発足した。西郷は、続いて鳥羽伏見の戦い、江戸城の明け渡しに活躍するとともに、明治新政府の参議となって、廃藩置県などの改革を行い、近代日本建設の土台づくりをした。

明治の新政府樹立に大きな功績があったものの、明治6年には朝鮮への使節派遣の主張が通らず下野。私学校を開設し子弟教育に専念する。その後、西南戦争の大将として新政府軍と戦うが、田原坂の敗北、そして、城山で自刃、巨星は50年の熱い生涯を閉じた。

 

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